2008/08/06

『赤と黒』『ベアトリックス』を読んで

『赤と黒』(Le rouge et le noir, 1830)
『ベアトリックス』(Béatrix, 1839)を読んで 
-気高き貴婦人の夢と愛-


 はじめに、私がなぜこの2作品を課題に選んだかであるが、それはテーマの中に「夢みる貴族の婦人」が含まれていたからである。夢見る、という形容詞は非常にロマンチックで好感が持てるし、貴族というのは煌びやかで華やかなイメージを伴うし、推測としては恋愛が含まれていそうだったため、読んでレポートを書く際に楽しんで書けそうだったからだ。他に「不可思議と恐怖」というのも、オカルトチックな雰囲気がして興味を惹かれたが残念ながら課題の作品を借りることができなかった。
今回は2作品の中で、特にマチルドとベアトリックスが夢見た、恋について考察する。

1 話の要約

1,『赤と黒』
 時代は王政復古のフランスである。主人公ジュリヤン・ソレルはヴェリエールの材木屋の息子として生まれた。野心家である彼はナポレオンに憧れを抱いたが、時代を考慮して聖職者への道を進んだ。
 彼はレナール氏にその才能を買われ、氏の子供たちの家庭教師として雇われる。そこでジュリヤンはレナール夫人と恋に落ちるが、周囲に噂が広がったため、レナール夫人の案によりブザンソンの神学校に入ることになる。そこでも記憶力の良さなど、頭脳が優れていることを示したジュリヤンは、ピラール神父の紹介でパリの一流貴族ラ・モール家の秘書として迎えられる。
 ラ・モール家のサロンはいつも取り巻きの貴族がひしめいていた。その中で退屈しきった一家の令嬢マチルドはジュリヤンを最初は嘲笑的に扱うが、彼が意外にも才気あふれる青年だとわかって、縁談が成立間近であるにもかかわらず、ジュリヤンと恋に落ちる。
 マチルドの妊娠が発覚し、ラ・モール侯爵の知られるところとなった二人の仲は、侯爵を憤らせ悲しませたが、事実を受け入れた侯爵は、娘にふさわしい地位を用意しようとジュリヤンを陸軍騎兵中尉に仕立てる。そしてレナール夫人の元へジュリヤンの身元を照会する手紙が届くが、ジュリヤンとの恋を深く反省していた彼女は、聖職者に言われるままに、ジュリヤンは出世欲のためだけに一家に取り入っている、という手紙をラ・モール侯爵へ送る。
 手紙によって憤慨した侯爵はマチルドをジュリヤンから離れさせ、手紙の存在を知ったジュリヤンはヴェリエールに行き、復讐心からレナール夫人に向け発砲する。彼は逮捕され、裁判へかけられる。
 殺人は未遂に終わったが、希望を失ったジュリヤンは裁判でも自分を弁護しようとしない。マチルドが必死に駆けつけるがわずらわしく感じ、レナール夫人が面会しに来たときは深い愛情を誓う。死刑判決がくだされ、処刑される。マチルドは憧れていた英雄の悲劇と同様、落とされたジュリヤンの首に口づけをして葬り、レナール夫人は3日後に息を引き取る。

2,『ベアトリックス』
 この作品はバルザックの<人間喜劇>の中で風俗研究に属し、『ゴリオ爺さん』(Le Père Goriot,1835)と並んで私生活場景を描いたものとされている。
 古い中世的なブルターニュの強大な城壁をめぐらせたゲランドが舞台であり、主人公はそれまで敬虔なカトリック教育を受けてきた男爵家の一人息子、青年カリスト・デュ・ゲニックである。彼はカミーユ・モーパンという、偽名によって名を馳せた女流作家であり音楽家のフェリシテ・デ・トゥーシュとの付き合いに人生の理想を見出し、彼女に憧れ、彼女の住むレ・トーシュへ通う。しかし、熱心な情夫であり作家であるクロード・ヴィニョンがカリストの恋敵であり、許嫁シャルロットを顧みず報われない恋に悩んでいた。
 侯爵夫人であるベアトリックス・ド・ロシュフィードとその恋人で音楽家のコンチが、レ・トーシュへ寄った。カリストはフェリシテの計らいにより、コンチに捨てられたロシュフィード夫人を恋い慕うようになるが、二人の仲が深まったとき、コンチがレ・トゥーシュに戻りベアトリックスと復縁しどこかへ連れ去ってしまう。
 恋人の裏切りにより絶望したカリストは生気を失い、床に伏せるが、ベアトリックスを探すためにパリに赴く。そこでフェリシテに説得され、遺産を譲られ、サビーヌという女性と結婚する。ゲランドに戻った新婚のカリストとサビーヌはレ・トューシュを訪れた。カリストはロシュフィード夫人との苦い思い出に浸される。
 パリで生活し始めたカリストは偶然ロシュフィード夫人を見かけ、彼女に誘惑され、再び恋仲に戻ってしまう。カリストは「愛したのはあなただけ…」と毎日のようにロシュフィード夫人を訪ねるようになる。夫の浮気に気付き打ちひしがれたサビーヌだったが、周囲の助けを得て夫をベアトリックスのもとから取り戻す。

2 マチルドとベアトリックスについて

 ここでは、テーマに含まれる二人の女性を観察してみる。

1,マチルドについて
テーマの「夢見る貴族の婦人」であるマチルドの夢は彼女の夢想にふけるシーンのなかで見られる。それは大半自問自答の<>に入った会話口調のなかで繰り広げられた。スタンダールの巧みな会話表現術はバルザックも認めるところであったという。

  バルザックは、スタンダールの偉大な作家的能力に対しては、繰り返し深い理解を示している。それはまず第一に人間の性格を、その本質的なものをきわだたせながら簡単的確に書くという能力である。「ベイル氏は数言にして彼の諸人物の性格を行動と対話とによって表すことができるのである。彼は叙述にあきることなく、ドラマへと急ぎ、そしてそれを一つの言葉、一つの反省によって達成している。」[1]

 物語の中で、スタンダールの関心は人物の目の前に広がっている情景描写や人物が着ている衣裳の素材や形、色なんかにあるわけではなく、彼の狙いはただ精神を分析するということに定まっている[2]。だから彼は文章の多くを会話と自問にし、周辺の環境に対する描写は必要最低限に抑えたのだろう。これでは19世紀フランスへ入り込むような想像力は湧かないかもしれないが、内面からの考察によって19世紀の貴族の娘がどのように考えていたのか、ということはわかる。
 マチルドを表す言葉で本文に多く使われていた単語は「気高さ」や「傲慢さ」「才気」などという言葉であった。ラ・モール家の令嬢として誰からもちやほやされ「気高く」「高慢に」振る舞い、サロンで機智の効いたおしゃべりをするために、「才気」溢れる女王のような態度で生きてきたのである。特に「自尊心」という言葉は多く使われ、貴族意識の中で育てられたマチルドの「自尊心」はジュリヤンの愛の障害にもなった。レー公爵邸でのマチルドの考え事の会話調は彼女の性格を正確な単語で書き出す何倍もの説得力を持って彼女の性格を読み手に伝えるだろう。
その他に彼女に深くかかわった単語は「退屈」であった。「実に美しいとはいえ、計り知れない退屈の色や、さらに悪いことには、喜びなどどこにもないのだという絶望の色さえ浮かべた彼女の目[3]」という表現からもわかるように、マチルドは貴族の暮らしに嫌気がさしていたのだ。自分の生活に飽き飽きし、

 <カトリーヌ・ド・メディシスやルイ十三世のころのような本物の宮廷がないのは、何と残念なことだろう!私には自分が、どんな大胆なこと、どんな偉大なことでもできるという気がする。ルイ十三世のような勇気のある王様にひざまずかれたなら、なんでもしてさしあげるのに!>[4]
 
 と、何世紀も前のロマンスを夢見ていたのだ。自分の時代の周りの取り巻き連中は、毎日自分におべっかを使いにやってくる、自分がいとも簡単に操れるつまらない人間だとみなしている。燃えるような大胆さ、勇気を持った男を求めていた。
 そんななかジュリヤンが現れる。彼の自分に媚びない冷たい態度、強靭な精神を見てびっくりし、マチルドは虜になってしまう。
 
  「あなたは私の主人、私はあなたの奴隷よ」(中略)彼女は抱擁を解いて、ジュリヤンの足元にうずくまった。「ええ、あなたは私の主人」幸福と恋に酔いしれて彼女はいった。「いつまでも私を支配してちょうだい。奴隷が反抗しようとしたときは、厳しくこらしめてね」[5]

こんな風に誓った相手に、マチルドは何を求めていたのか。それは自分を上回る「自尊心」「威厳」を持った態度だったのではないだろうか。ジュリヤンがこんな告白に浮かれようとでもしたものならば、彼女の「自尊心」が彼女を「傲慢」な態度に引き戻し、彼に対して告白は嘘だったかのように彼を憎悪させてしまう。ジュリヤンは苦悩し、冷静さを取り戻す訓練を自然とさせられたため、レナール夫人を想う様にはマチルドを愛することが出来なかったのだろう。そして結局マチルドはこんな告白をしても、ジュリヤン自身を愛したのではないのである。ジュリヤンが死刑を宣告されたときの態度が示している。

ジュリヤンの頭を胸元にかき抱いているときにも、<ああ! こんな魅力的な首が斬られる定めだなんて!>と思ってぞっとしたり、かと思えば英雄的な思いに燃え上って、幸福な気分を味わいながら[6]

 彼女はジュリヤンを通して詩的でロマンチックだった時代の愛を夢見、そんな恋に溺れる自分を思って幸福に浸っていたのである。彼を墓に葬る時まで、彼女は夢の中のヒロインを演じていたのだ。

2,ベアトリックスについて
 スタンダールとバルザックの描写の違いを考えてみるならば、スタンダールは外界の環境描写を極力簡略化したのに対して、バルザックは詳細綿密に語った[7]。ベアトリックスの貴族らしい態度や外見は、登場人物の会話からではなく、語り手であるバルザックからあらかじめ知らされた。
マチルドと比較してベアトリックスには、若い娘にあるような衝動的なものは感じられない。そしてこの物語の主人公カリストとジュリヤンの性格にも、共通点はあまりない。カリストはただ純粋で、出世を求めるわけではなく、勇気が必要だったわけでもない。デ・トゥーシュ嬢にとっても、ベアトリックスにとっても、ただ愛らしい純真で無垢な「天使」のような少年のように描かれている。「天使」という形容は何度も使われていた。
 ベアトリクスの中にも、パリの貴族らしい高慢さや気高さと称される性格が見て取れるが、カリスト許嫁である田舎貴族の娘シャルロットはベアトリックスをこんなふうに表している。

  「私たちはレースのついた美しいドレスも持っていないし、こんなふうに袖を振ったりもしないし、こんなふうにポーズもしないし、横目をつかったり、首を振り向けたりすることもしらないし」(中略)「頭のてっぺんから抜ける声もないし、ウ、ウ、という幽霊のため息みたいなあの小さな面白い咳も出ないし、私たちはあいにくと身体が頑丈で、媚びるまねなんかせずにお友だちを愛します。私たちがお友だちの顔を見るときには、槍で突き刺すようなようすも、猫かむりの目でじろじろ探るようなようすもしませんわ。枝垂柳のように頭をかしげて、それをまたこんなふうに上げて、いとしらしいようすをするなんてこともできないわ」[8]

 このシャルロットの口を借りた貴族の婦人の描写は、嫉妬が入っているためさらに辛辣になっているが、『赤と黒』におけるジュリヤンの視点から見たラ・モール家と同様、田舎の娘の目にベアトリックスのような貴婦人がどのように写っていたのか、とても生き生きと表れていて、作品中で最も面白い台詞だと思われる。「自尊心」に高められたパリの婦人はこんな風に気取っていたのだなということがわかる。
  しかしこの高貴なベアトリックスはカリストとの恋の中に、こんな素朴な自分を見つけだして喜ぶのである。

  「十年このかた、さっき二人であの水とすれすれの岩で貝殻を探したり、小石を取り換えっこしたりして味わった幸福にくらべることのできる幸福を味わったことはないのよ。あの石で私は首飾りをつくりたいわ。それは私にとっていちばん立派なダイヤで出来ているのよりも貴いものになるでしょう。私はさっき小さな娘に、子供になっていたのです。十四か十六の頃の私とそっくりに。」[9]

 ベアトリックスが純粋な青年カリストを通して夢見たのは、もう過ぎ去った純粋な喜びであった。「自尊心」によって恋していたコンチの場合とは違った喜びを、この恋の中に見つけたのであろう。マチルドは自分の環境の中にいる男性の退屈さゆえにロマンチックで現実離れした恋愛に憧れを抱くが、ベアトリックスは気取った恋愛に愛想を尽かし、子供のようなイノセントな恋愛ごっこをカリストと繰り広げたのだ。
 しかし物語の後半のベアトリックスが取る行動は、少々「気高さ」に欠けるような気がする。カリストの純粋な愛を手玉にとり、彼を苦悩させることを楽しんですらいるかのようである。この物語の中で真に「気高かった」のはデ・トゥーシュ嬢であり、ベアトリックスには夢見る心はあっても、マチルドが持ち続けた「自尊心」は失われてしまったのかもしれない。

3 間テクスト性についての考察
 
 両作品の間テクスト性について考えたい。『赤と黒』は貴族の令嬢と平民の才気あふれる青年の恋物語である。そして『ベアトリックス』の愛憎劇も機知に富んだパリの貴婦人達と、カトリックの教えしかしらない田舎の男爵の子息との間に起こる。パリの社交界で交わされるようなエスプリに対して主人公ジュリヤンもカリストも、無知で純真なことは共通している。そしてジュリヤンは高嶺の花であるマチルドを手に入れたが身を滅ぼし、カリストも二人の貴婦人、デ・トゥーシュ嬢とベアトリックスに気に入られ愛されたが、結局はサビーヌとの夫婦生活に戻って終わる。作品全体の流れにわたって、類似性を感じる設定がなされている。
 ロラン・バルトは相互関連テクストを「循環する記憶なのである。(中略)すなわち、無限のテクストの外で生きることの不可能性である[10]」としている。『ベアトリックス』が書かれたのは『赤と黒』が出版された数年後である。『赤と黒』を批評したバルザックの中からジュリヤンとマチルドが循環されてカリストと貴婦人たちへと姿を変えたのかもしれない。

4 まとめ

 「気高さ」「傲慢」「自尊心」、ジュリヤンやカリストが感じた貴族の女性に対する単語はこの3つが多く使われていた。彼らは時に批判の目で見て「傲慢」と感じ、時に恐れ入って「気高さ」を感じた。貴婦人たちにとって「自尊心」を保つことが貴族として生き抜くうえで重要なことであり、それは必要不可欠だったのだ。マチルドやデ・トゥーシュ嬢やベアトリックスは、自分が周りの人々からどう思われているかわかっていた。どう振舞うべきかもわかっていた。だからこそ、現実からは離れた理想を抱き、夢見る心を保ちつづけたのではないだろうか。












参考文献

文学作品
スタンダール『赤と黒(下)』、野崎歓訳、光文社、2007年、(Œuvres de Stendhal (Henry Beyle),Le rouge et le noir, Alphonse Lemerre , 1830)
バルザック「ベアトリックス」、『バルザック全集 第十五巻』、市原豊太訳、東京創元社、1974年、(Honoré de Balzac, Béatrix, Le Siècle,Paris,1839)
ロラン・バルト『テクストの快楽』、沢崎浩平訳、みすず書房、1977年、(Roland Barthes, Le Plaisir du Texte, Édition de Seuil,1973)

研究書
石川宏「同時代年代記と小説」、『フランス文学講座』、第2巻『小説 Ⅱ』所収、大修館書店、1978年、
鈴木昭一郎『スタンダール』、清水書院、1991年
日本バルザック研究会『バルザック―生誕二百年記念論文集―』、駿河台出版社、1999年
G.ルカーチ『バルザックとフランス・リアリズム』、男沢淳 針生一郎訳、岩波書店、1955年、(György Lukács, Balzac und der franzosische Realismus,Librairie Mecklenburg,1952)
[1] G.ルカーチ『バルザックとフランス・リアリズム』、男沢淳 針生一郎訳、岩波書店、1955年、117頁(György Lukács, Balzac und der franzosische Realismus,Librairie Mecklenburg,1952)
[2] 石川宏「同時代年代記と小説」、『フランス文学講座』、第2巻『小説 Ⅱ』所収、大修館書店、1978年、39頁
[3] スタンダール『赤と黒(下)』、野崎歓訳、光文社、2007年、120頁(Œuvres de Stendhal (Henry Beyle),Le rouge et le noir, Alphonse Lemerre , 1830)
[4] 同上 181頁
[5] スタンダール『赤と黒(下)』、野崎歓訳、光文社、2007年、120頁(Œuvres de Stendhal (Henry Beyle),Le rouge et le noir, Alphonse Lemerre , 1830)
[6] 同上 513頁
[7]石川宏「同時代年代記と小説」、『フランス文学講座』、第2巻『小説 Ⅱ』所収、大修館書店、1978年、45、46頁
[8] バルザック「ベアトリックス」、『バルザック全集 第十五巻』、市原豊太訳、東京創元社、1974年、149頁(Honoré de Balzac, Béatrix, Le Siècle,Paris,1839)
[9] 同上、169頁
[10] ロラン・バルト『テクストの快楽』、沢崎浩平訳、みすず書房、1977年、68頁(Roland Barthes, Le Plaisir du Texte, Édition de Seuil,1973)

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