2008/08/06

『赤と黒』『ベアトリックス』を読んで

『赤と黒』(Le rouge et le noir, 1830)
『ベアトリックス』(Béatrix, 1839)を読んで 
-気高き貴婦人の夢と愛-


 はじめに、私がなぜこの2作品を課題に選んだかであるが、それはテーマの中に「夢みる貴族の婦人」が含まれていたからである。夢見る、という形容詞は非常にロマンチックで好感が持てるし、貴族というのは煌びやかで華やかなイメージを伴うし、推測としては恋愛が含まれていそうだったため、読んでレポートを書く際に楽しんで書けそうだったからだ。他に「不可思議と恐怖」というのも、オカルトチックな雰囲気がして興味を惹かれたが残念ながら課題の作品を借りることができなかった。
今回は2作品の中で、特にマチルドとベアトリックスが夢見た、恋について考察する。

1 話の要約

1,『赤と黒』
 時代は王政復古のフランスである。主人公ジュリヤン・ソレルはヴェリエールの材木屋の息子として生まれた。野心家である彼はナポレオンに憧れを抱いたが、時代を考慮して聖職者への道を進んだ。
 彼はレナール氏にその才能を買われ、氏の子供たちの家庭教師として雇われる。そこでジュリヤンはレナール夫人と恋に落ちるが、周囲に噂が広がったため、レナール夫人の案によりブザンソンの神学校に入ることになる。そこでも記憶力の良さなど、頭脳が優れていることを示したジュリヤンは、ピラール神父の紹介でパリの一流貴族ラ・モール家の秘書として迎えられる。
 ラ・モール家のサロンはいつも取り巻きの貴族がひしめいていた。その中で退屈しきった一家の令嬢マチルドはジュリヤンを最初は嘲笑的に扱うが、彼が意外にも才気あふれる青年だとわかって、縁談が成立間近であるにもかかわらず、ジュリヤンと恋に落ちる。
 マチルドの妊娠が発覚し、ラ・モール侯爵の知られるところとなった二人の仲は、侯爵を憤らせ悲しませたが、事実を受け入れた侯爵は、娘にふさわしい地位を用意しようとジュリヤンを陸軍騎兵中尉に仕立てる。そしてレナール夫人の元へジュリヤンの身元を照会する手紙が届くが、ジュリヤンとの恋を深く反省していた彼女は、聖職者に言われるままに、ジュリヤンは出世欲のためだけに一家に取り入っている、という手紙をラ・モール侯爵へ送る。
 手紙によって憤慨した侯爵はマチルドをジュリヤンから離れさせ、手紙の存在を知ったジュリヤンはヴェリエールに行き、復讐心からレナール夫人に向け発砲する。彼は逮捕され、裁判へかけられる。
 殺人は未遂に終わったが、希望を失ったジュリヤンは裁判でも自分を弁護しようとしない。マチルドが必死に駆けつけるがわずらわしく感じ、レナール夫人が面会しに来たときは深い愛情を誓う。死刑判決がくだされ、処刑される。マチルドは憧れていた英雄の悲劇と同様、落とされたジュリヤンの首に口づけをして葬り、レナール夫人は3日後に息を引き取る。

2,『ベアトリックス』
 この作品はバルザックの<人間喜劇>の中で風俗研究に属し、『ゴリオ爺さん』(Le Père Goriot,1835)と並んで私生活場景を描いたものとされている。
 古い中世的なブルターニュの強大な城壁をめぐらせたゲランドが舞台であり、主人公はそれまで敬虔なカトリック教育を受けてきた男爵家の一人息子、青年カリスト・デュ・ゲニックである。彼はカミーユ・モーパンという、偽名によって名を馳せた女流作家であり音楽家のフェリシテ・デ・トゥーシュとの付き合いに人生の理想を見出し、彼女に憧れ、彼女の住むレ・トーシュへ通う。しかし、熱心な情夫であり作家であるクロード・ヴィニョンがカリストの恋敵であり、許嫁シャルロットを顧みず報われない恋に悩んでいた。
 侯爵夫人であるベアトリックス・ド・ロシュフィードとその恋人で音楽家のコンチが、レ・トーシュへ寄った。カリストはフェリシテの計らいにより、コンチに捨てられたロシュフィード夫人を恋い慕うようになるが、二人の仲が深まったとき、コンチがレ・トゥーシュに戻りベアトリックスと復縁しどこかへ連れ去ってしまう。
 恋人の裏切りにより絶望したカリストは生気を失い、床に伏せるが、ベアトリックスを探すためにパリに赴く。そこでフェリシテに説得され、遺産を譲られ、サビーヌという女性と結婚する。ゲランドに戻った新婚のカリストとサビーヌはレ・トューシュを訪れた。カリストはロシュフィード夫人との苦い思い出に浸される。
 パリで生活し始めたカリストは偶然ロシュフィード夫人を見かけ、彼女に誘惑され、再び恋仲に戻ってしまう。カリストは「愛したのはあなただけ…」と毎日のようにロシュフィード夫人を訪ねるようになる。夫の浮気に気付き打ちひしがれたサビーヌだったが、周囲の助けを得て夫をベアトリックスのもとから取り戻す。

2 マチルドとベアトリックスについて

 ここでは、テーマに含まれる二人の女性を観察してみる。

1,マチルドについて
テーマの「夢見る貴族の婦人」であるマチルドの夢は彼女の夢想にふけるシーンのなかで見られる。それは大半自問自答の<>に入った会話口調のなかで繰り広げられた。スタンダールの巧みな会話表現術はバルザックも認めるところであったという。

  バルザックは、スタンダールの偉大な作家的能力に対しては、繰り返し深い理解を示している。それはまず第一に人間の性格を、その本質的なものをきわだたせながら簡単的確に書くという能力である。「ベイル氏は数言にして彼の諸人物の性格を行動と対話とによって表すことができるのである。彼は叙述にあきることなく、ドラマへと急ぎ、そしてそれを一つの言葉、一つの反省によって達成している。」[1]

 物語の中で、スタンダールの関心は人物の目の前に広がっている情景描写や人物が着ている衣裳の素材や形、色なんかにあるわけではなく、彼の狙いはただ精神を分析するということに定まっている[2]。だから彼は文章の多くを会話と自問にし、周辺の環境に対する描写は必要最低限に抑えたのだろう。これでは19世紀フランスへ入り込むような想像力は湧かないかもしれないが、内面からの考察によって19世紀の貴族の娘がどのように考えていたのか、ということはわかる。
 マチルドを表す言葉で本文に多く使われていた単語は「気高さ」や「傲慢さ」「才気」などという言葉であった。ラ・モール家の令嬢として誰からもちやほやされ「気高く」「高慢に」振る舞い、サロンで機智の効いたおしゃべりをするために、「才気」溢れる女王のような態度で生きてきたのである。特に「自尊心」という言葉は多く使われ、貴族意識の中で育てられたマチルドの「自尊心」はジュリヤンの愛の障害にもなった。レー公爵邸でのマチルドの考え事の会話調は彼女の性格を正確な単語で書き出す何倍もの説得力を持って彼女の性格を読み手に伝えるだろう。
その他に彼女に深くかかわった単語は「退屈」であった。「実に美しいとはいえ、計り知れない退屈の色や、さらに悪いことには、喜びなどどこにもないのだという絶望の色さえ浮かべた彼女の目[3]」という表現からもわかるように、マチルドは貴族の暮らしに嫌気がさしていたのだ。自分の生活に飽き飽きし、

 <カトリーヌ・ド・メディシスやルイ十三世のころのような本物の宮廷がないのは、何と残念なことだろう!私には自分が、どんな大胆なこと、どんな偉大なことでもできるという気がする。ルイ十三世のような勇気のある王様にひざまずかれたなら、なんでもしてさしあげるのに!>[4]
 
 と、何世紀も前のロマンスを夢見ていたのだ。自分の時代の周りの取り巻き連中は、毎日自分におべっかを使いにやってくる、自分がいとも簡単に操れるつまらない人間だとみなしている。燃えるような大胆さ、勇気を持った男を求めていた。
 そんななかジュリヤンが現れる。彼の自分に媚びない冷たい態度、強靭な精神を見てびっくりし、マチルドは虜になってしまう。
 
  「あなたは私の主人、私はあなたの奴隷よ」(中略)彼女は抱擁を解いて、ジュリヤンの足元にうずくまった。「ええ、あなたは私の主人」幸福と恋に酔いしれて彼女はいった。「いつまでも私を支配してちょうだい。奴隷が反抗しようとしたときは、厳しくこらしめてね」[5]

こんな風に誓った相手に、マチルドは何を求めていたのか。それは自分を上回る「自尊心」「威厳」を持った態度だったのではないだろうか。ジュリヤンがこんな告白に浮かれようとでもしたものならば、彼女の「自尊心」が彼女を「傲慢」な態度に引き戻し、彼に対して告白は嘘だったかのように彼を憎悪させてしまう。ジュリヤンは苦悩し、冷静さを取り戻す訓練を自然とさせられたため、レナール夫人を想う様にはマチルドを愛することが出来なかったのだろう。そして結局マチルドはこんな告白をしても、ジュリヤン自身を愛したのではないのである。ジュリヤンが死刑を宣告されたときの態度が示している。

ジュリヤンの頭を胸元にかき抱いているときにも、<ああ! こんな魅力的な首が斬られる定めだなんて!>と思ってぞっとしたり、かと思えば英雄的な思いに燃え上って、幸福な気分を味わいながら[6]

 彼女はジュリヤンを通して詩的でロマンチックだった時代の愛を夢見、そんな恋に溺れる自分を思って幸福に浸っていたのである。彼を墓に葬る時まで、彼女は夢の中のヒロインを演じていたのだ。

2,ベアトリックスについて
 スタンダールとバルザックの描写の違いを考えてみるならば、スタンダールは外界の環境描写を極力簡略化したのに対して、バルザックは詳細綿密に語った[7]。ベアトリックスの貴族らしい態度や外見は、登場人物の会話からではなく、語り手であるバルザックからあらかじめ知らされた。
マチルドと比較してベアトリックスには、若い娘にあるような衝動的なものは感じられない。そしてこの物語の主人公カリストとジュリヤンの性格にも、共通点はあまりない。カリストはただ純粋で、出世を求めるわけではなく、勇気が必要だったわけでもない。デ・トゥーシュ嬢にとっても、ベアトリックスにとっても、ただ愛らしい純真で無垢な「天使」のような少年のように描かれている。「天使」という形容は何度も使われていた。
 ベアトリクスの中にも、パリの貴族らしい高慢さや気高さと称される性格が見て取れるが、カリスト許嫁である田舎貴族の娘シャルロットはベアトリックスをこんなふうに表している。

  「私たちはレースのついた美しいドレスも持っていないし、こんなふうに袖を振ったりもしないし、こんなふうにポーズもしないし、横目をつかったり、首を振り向けたりすることもしらないし」(中略)「頭のてっぺんから抜ける声もないし、ウ、ウ、という幽霊のため息みたいなあの小さな面白い咳も出ないし、私たちはあいにくと身体が頑丈で、媚びるまねなんかせずにお友だちを愛します。私たちがお友だちの顔を見るときには、槍で突き刺すようなようすも、猫かむりの目でじろじろ探るようなようすもしませんわ。枝垂柳のように頭をかしげて、それをまたこんなふうに上げて、いとしらしいようすをするなんてこともできないわ」[8]

 このシャルロットの口を借りた貴族の婦人の描写は、嫉妬が入っているためさらに辛辣になっているが、『赤と黒』におけるジュリヤンの視点から見たラ・モール家と同様、田舎の娘の目にベアトリックスのような貴婦人がどのように写っていたのか、とても生き生きと表れていて、作品中で最も面白い台詞だと思われる。「自尊心」に高められたパリの婦人はこんな風に気取っていたのだなということがわかる。
  しかしこの高貴なベアトリックスはカリストとの恋の中に、こんな素朴な自分を見つけだして喜ぶのである。

  「十年このかた、さっき二人であの水とすれすれの岩で貝殻を探したり、小石を取り換えっこしたりして味わった幸福にくらべることのできる幸福を味わったことはないのよ。あの石で私は首飾りをつくりたいわ。それは私にとっていちばん立派なダイヤで出来ているのよりも貴いものになるでしょう。私はさっき小さな娘に、子供になっていたのです。十四か十六の頃の私とそっくりに。」[9]

 ベアトリックスが純粋な青年カリストを通して夢見たのは、もう過ぎ去った純粋な喜びであった。「自尊心」によって恋していたコンチの場合とは違った喜びを、この恋の中に見つけたのであろう。マチルドは自分の環境の中にいる男性の退屈さゆえにロマンチックで現実離れした恋愛に憧れを抱くが、ベアトリックスは気取った恋愛に愛想を尽かし、子供のようなイノセントな恋愛ごっこをカリストと繰り広げたのだ。
 しかし物語の後半のベアトリックスが取る行動は、少々「気高さ」に欠けるような気がする。カリストの純粋な愛を手玉にとり、彼を苦悩させることを楽しんですらいるかのようである。この物語の中で真に「気高かった」のはデ・トゥーシュ嬢であり、ベアトリックスには夢見る心はあっても、マチルドが持ち続けた「自尊心」は失われてしまったのかもしれない。

3 間テクスト性についての考察
 
 両作品の間テクスト性について考えたい。『赤と黒』は貴族の令嬢と平民の才気あふれる青年の恋物語である。そして『ベアトリックス』の愛憎劇も機知に富んだパリの貴婦人達と、カトリックの教えしかしらない田舎の男爵の子息との間に起こる。パリの社交界で交わされるようなエスプリに対して主人公ジュリヤンもカリストも、無知で純真なことは共通している。そしてジュリヤンは高嶺の花であるマチルドを手に入れたが身を滅ぼし、カリストも二人の貴婦人、デ・トゥーシュ嬢とベアトリックスに気に入られ愛されたが、結局はサビーヌとの夫婦生活に戻って終わる。作品全体の流れにわたって、類似性を感じる設定がなされている。
 ロラン・バルトは相互関連テクストを「循環する記憶なのである。(中略)すなわち、無限のテクストの外で生きることの不可能性である[10]」としている。『ベアトリックス』が書かれたのは『赤と黒』が出版された数年後である。『赤と黒』を批評したバルザックの中からジュリヤンとマチルドが循環されてカリストと貴婦人たちへと姿を変えたのかもしれない。

4 まとめ

 「気高さ」「傲慢」「自尊心」、ジュリヤンやカリストが感じた貴族の女性に対する単語はこの3つが多く使われていた。彼らは時に批判の目で見て「傲慢」と感じ、時に恐れ入って「気高さ」を感じた。貴婦人たちにとって「自尊心」を保つことが貴族として生き抜くうえで重要なことであり、それは必要不可欠だったのだ。マチルドやデ・トゥーシュ嬢やベアトリックスは、自分が周りの人々からどう思われているかわかっていた。どう振舞うべきかもわかっていた。だからこそ、現実からは離れた理想を抱き、夢見る心を保ちつづけたのではないだろうか。












参考文献

文学作品
スタンダール『赤と黒(下)』、野崎歓訳、光文社、2007年、(Œuvres de Stendhal (Henry Beyle),Le rouge et le noir, Alphonse Lemerre , 1830)
バルザック「ベアトリックス」、『バルザック全集 第十五巻』、市原豊太訳、東京創元社、1974年、(Honoré de Balzac, Béatrix, Le Siècle,Paris,1839)
ロラン・バルト『テクストの快楽』、沢崎浩平訳、みすず書房、1977年、(Roland Barthes, Le Plaisir du Texte, Édition de Seuil,1973)

研究書
石川宏「同時代年代記と小説」、『フランス文学講座』、第2巻『小説 Ⅱ』所収、大修館書店、1978年、
鈴木昭一郎『スタンダール』、清水書院、1991年
日本バルザック研究会『バルザック―生誕二百年記念論文集―』、駿河台出版社、1999年
G.ルカーチ『バルザックとフランス・リアリズム』、男沢淳 針生一郎訳、岩波書店、1955年、(György Lukács, Balzac und der franzosische Realismus,Librairie Mecklenburg,1952)
[1] G.ルカーチ『バルザックとフランス・リアリズム』、男沢淳 針生一郎訳、岩波書店、1955年、117頁(György Lukács, Balzac und der franzosische Realismus,Librairie Mecklenburg,1952)
[2] 石川宏「同時代年代記と小説」、『フランス文学講座』、第2巻『小説 Ⅱ』所収、大修館書店、1978年、39頁
[3] スタンダール『赤と黒(下)』、野崎歓訳、光文社、2007年、120頁(Œuvres de Stendhal (Henry Beyle),Le rouge et le noir, Alphonse Lemerre , 1830)
[4] 同上 181頁
[5] スタンダール『赤と黒(下)』、野崎歓訳、光文社、2007年、120頁(Œuvres de Stendhal (Henry Beyle),Le rouge et le noir, Alphonse Lemerre , 1830)
[6] 同上 513頁
[7]石川宏「同時代年代記と小説」、『フランス文学講座』、第2巻『小説 Ⅱ』所収、大修館書店、1978年、45、46頁
[8] バルザック「ベアトリックス」、『バルザック全集 第十五巻』、市原豊太訳、東京創元社、1974年、149頁(Honoré de Balzac, Béatrix, Le Siècle,Paris,1839)
[9] 同上、169頁
[10] ロラン・バルト『テクストの快楽』、沢崎浩平訳、みすず書房、1977年、68頁(Roland Barthes, Le Plaisir du Texte, Édition de Seuil,1973)

ジル・ド・レの信仰と犯罪、異常性

ジル・ド・レは、聖女ジャンヌ・ダルクと共にシャルル7世のために戦い、フランス王国元帥にまでなりながら、後年幼児を集め大量に殺戮し、悪魔信仰や錬金術を行い、最後は逮捕されジャンヌと同じように火あぶりにされた数奇な運命を生きた人である。
聖女という存在のそばで栄光を手にしながらあとになって反キリスト教的な快感にのめりこんだというドラマチックな人生に様々な人が惹かれ、研究されている。しかし『聖女ジャンヌと悪魔ジル』でミシェル・トゥルニエが描いたような二人の間の絆、ジャンヌの影響でのジルの発狂という事実は実際にはなかったらしい。ジョルジュ・バタイユの『ジル・ド・レ論』にも「明らかにジル・ド・レにとっては、ジャンヌ・ダルクは理解不能の人物であった。[1]」とあり、カルル・ユイスマンスやミシェル・バタイユなどの研究もこの意見と一致している。私は資料を集める際、『聖女ジャンヌと悪魔ジル』から先に読んだのだが、ジルの、男装し戦う少女ジャンヌの少年的容姿が忘れられず男色の道にのめり込む様や、魔女から聖女に帰化するジャンヌに憧れ、悪魔信仰に溺れながらも純粋に天国を目指す様は、彼の一生をジャンヌという存在を使って悲劇に仕立ててあり、論文を書く際の資料としてはフィクション性が高いため危険なものであったが、ロマンチックで同情を引くような内容であった。ミシェル・トゥルニエの文章は生き生きとしていて、司馬遼太郎のようなものなのだろう。しかし事実は、レ元帥はジャンヌなど全く関係なく大量幼児殺人を行い、サディスティックな快感を得ていたのだ。
 ところで、私が注目したところは、まず彼は生粋の貴族の出であり、元帥としての地位も名誉も財産もあったので、しばしば自分の領地に豪華な教会を建てたのだが、その裏で(しかも同時期に)男色と殺人という罪を犯しているというところである。彼はなぜキリスト教に奉仕しながら一方教理にそむく行為をしたのだろうか。逆にいえばなぜキリスト教を捨てきれなかったのだろうか。最後の裁判時にはなんと彼は破門という裁きに驚き絶望するである。そして懺悔を申し出るのだ。なぜ彼は最後までキリストに縋ったのだろうか。
そして次に彼が犯した罪についてである。彼の犯した罪は恐ろしいことだろうが現代と中世では価値観に大幅な違いがあり、人間の野蛮さも今とは比べものにならないだろう。魔女裁判が行われたことを考えてみれば、人の死は時として見世物になる時代であったのだ[2]。彼の残忍性と当代の人々のそれを比較する。
 私は今回ジル・ド・レの信仰心と異常行為の矛盾はなぜ起こったのかを考え、そしてその異常行為を中世の人々の野蛮さを踏まえて観察することで、ジル・ド・レの人物像とともに当時の人々の心理を覗いてみたい。

第一章 ジル・ド・レの反キリスト教行為と信仰心
 まずここでは、ジル・ド・レの犯した罪と信仰心の矛盾について考えてみる。彼は自分の快感のために、マシュクール城で小児殺害の悪行にふけるかたわら、「罪なき子ら」崇敬のミサを教会に寄進していた[3]のである。私は彼のこの信仰心と残虐性の二面性に強い疑問を感じた。彼は禁忌を犯しながらも、神の救いを求めたのであろうか。
そして彼はキリスト教から禁止されていた錬金術に熱中し(極度の出費によって金欠になったためだといわれている)、悪魔信仰にのめりこんだのであるが、裁判によって破門されたときも、それを当然だとは思わなかったようである。
 
  この時代にあっては破門には人々を完全に絶望せしめてしまう力があった。表面的にはジルは裁判官たちを超越するものであるような顔をすることもできた。しかしながら彼はその数々の犯罪、悪魔道の修行にもかかわらず迷信深い信者であったのであり、そんな彼はこの破門の脅威の前にもろくも崩れ去ったのである[4]

バタイユが書いているように、破門には人々から希望を奪う力があった。中世の存在価値は、キリスト教徒して生きることであったようである。それを否定されるということはジル・ド・レにとっても同様に脅威の判決だったのである。しかし、彼が(諸説あるが)推定100以上の[5]子供を殺し、数々の悪行を行ったあとも、信仰心を捨てなかったということに驚くべきではないだろうか。魂までは悪魔に渡さなかったというわけである。彼はしかも法廷で悪魔信仰の仲間であったフランソワ・プレラッティに対してこう言っているのである。

  「さらばじゃ、フランソワ、わが友よ最早この世で会うことはない。わたしは神に祈ろう、そなたに忍耐心と正しき知識と、そして天国の歓喜の内に目の当たりにすることになるであろう神への希望を与え給うようにな。わたしのために神に祈ってくれ。私もそなたのために祈ろうによって」[6]

この言葉は、自分がまだ天国に行けることを信じているということであろう。楽天主義とも言えそうな、ジル・ド・レの信仰心に私は驚くばかりである。悪魔を信仰し、少年のいけにえを悪魔にささげ、快感にひたりながら、一方では教会に寄進し、ミサに赴き、破門におびえ、神に懺悔した彼の二面性こそが行為以上に異常だと感じてしまう。中世の人々の感覚は、このように二面性をもったものであるといえるのだろうか。
ホイジンガは中世の人々の信仰心について、こう書いている。

  中世人の意識にあっては、いわば、ふたつの人生観が、よりそいあって存在していたのである。敬虔にして禁欲的な人生観は、すべての道徳感情を、おのれの側にひきつけた。それに反発するかのように、世俗的人生観は、ますます奔放に、悪魔にすっかり身をゆだねることになった。この二つの人生観のどちらかが、他を完全におさえて支配的となるとき、聖者が、あるいは度しがたい罪人がみられることになろう。だが、一般に、両者は、針の大きな振幅を示しつつ、からくも均衡を保っていたのであって、だから、血みどろの罪にまっかにそまっていればこそ、それだけいっそう激烈に、あふれんばかりの敬虔の想いを、ときとすると爆発させることもあるという、激情の人間像がみられたのであった[7]
 
人々の心のなかは発作的な粗暴さと、発作的な信仰深さによって入り混じっていたようである。中世後期には清貧を説く修道会がゴシック芸術にこだわっていったということも、この矛盾を抱く時代を表しているようである。また貴族も気まぐれにミサに参加する一方、血みどろの楽しみに浸っていたようである。その両極端の美徳悪徳の魅力の狭間で、どちらかになりきれない矛盾は、ジル・ド・レだけのものではなく、中世の人々全般にわたる症状であったらしい。現代人である私たちには到底理解できない精神状態であるが、この中世人の思想は罪の現世に対する神の国という二元論でなりたっていたのだ[8]。とすれば彼の犯罪の闇をまるで敬虔さの光が強調しているような彼の人生は、その個人の異常性によってではなく、時代的なものであったのである。
そしてバタイユは、キリスト教徒におけるこういった混乱を教理に反することではないと書いている。

あるいはつきつめればキリスト教とは犯罪を要請するものなのかもしれない、とさえ言えるのだ。そう、キリスト教は恐るべき罪業の要請であり、ある意味ではそれを必要としているのだ。なぜなら、それは罪であって始めてその罪を赦すものたり得るからであるからだ。(中略)キリスト教は、人類を、このような狂気の極限を内包する人類を暗示するものであり、キリスト教のみが、人類がそのようなものの存在に堪えて行くことを可能としているのである。[9]

罪ある自分を救ってほしいと懇願するマゾヒスティックな面と、魅力ある罪に飲み込まれるサディスティックな喜びが混じった自虐的な考えがキリスト教によって認められているようである。この言葉で、ジル・ド・レの犯罪行為と、対照的なキリスト教信仰の矛盾がなぜ起こったのか、わかるのではないだろうか。キリスト教世界が彼の犯罪の起因といえるのかもしれないのである。
結論としていえば、ジル・ド・レの善悪対照的な奇行は、彼が中世キリスト教世界に生まれたからこそ行われたのであろう。彼のような時代を超えた伝説的大犯罪者の中にも色濃く時代の影響が見られるのである。


第二章 中世の人々の野蛮さとジル・ド・レの異常さ
 ジル・ド・レのサディズムな行為は、まるでサドの著作を読んでいるかの様にすさまじい。部下に命じて犠牲者の幼児に猿轡をかませ、壁に吊り下げさせ、部下に悪役を負わせて、自分が子どものそばに行き、助けてやるそぶりを見せる。その時の子供の安著の顔とこれからの子供の運命を考え彼は悦びに浸るのである。その後子供の首を切り、溢れ出す血と痙攣を眺めては楽しみ、まだ柔らかな死体を玩具にしてエクスタシーに飲み込まれるのである。その後死体を解体させ、時には何体もの子供の死体の首を並べ、どの子が一番魅力的かを共犯者に答えさせ、喜んでその首に接吻したそうである。
ジル・ド・レの残忍さが度を超えたものであることは明らかなことであるが、中世は魔女裁判を行うような時代であったことに注目したい。残酷さは人々にとってただ恐怖だったのだろうか。拷問や処刑は人々に興奮を与えはしなかったか。もし人々が恐怖以上に楽しみを見出していたなら、人々もどこかでジル・ド・レが感じた、死にゆくさまを見るという快感を得ていたのではないだろうか。
ここでは、中世における人々の死に対する残忍さを考えた上でジル・ド・レの野蛮さを考えたい。
まずホイジンガの述べた後期中世の人々の残忍さの例は以下のようなものである。
 
 後期中世の残酷さがわたしたちをおどろかすのは、その病的倒錯によってではない。その残忍さのうちに民衆のいだく、けだものじみた、いささか遅鈍な喜び、その残忍さを包む陽気なお祭り騒ぎによってである。モンスの町の人びとは、ある盗賊の首領を、あまりにも高すぎる値段だというのに、あえて買いとったが、それというのも、その男を八裂きにして楽しもうとしてのことであった。「民衆は、死んだ聖者の屍がたとえよみがえったとしてもこうは喜ばないだろうと思われるほど、喜び楽しんだ。」と、これはモリネの証言である。[10]

他にも民衆は公開された拷問を見ることを長く楽しもうと処刑してしまうことを許さなかったということも書かれている。バタイユはこの処刑をこう書いている。

当時にあっては処刑人の死は舞台の上の悲劇と同様に人の精神を高揚させる、意義深き人生の一モメントであったのだ。戦い、虐殺、諸侯の行列や宗教的行列、そして処刑は、教会や城塞同様、大衆を支配していたのだ。[11]

つまり、民衆にとって処刑は楽しみであり、処刑というのは見世物であるということである。この民衆の心理は、ジル・ド・レの残虐行為のそれとまったく同じではないだろうか。ジル・ド・レも快楽殺人の際、犠牲者の断末魔がなるべく長引くようにしたという。彼も民衆も、同じように視覚による喜びを得ていたのであり、程度は違えども同様の興奮を味わっていたのである。
当時の人々は百年戦争という絶えず戦争が起こっていた時代、ペストの被害が酷かった時代にあって、死というものに親近感を抱いていた。また戦争によって人間の強欲さが扇動され、強奪、放火、殺戮に慣れ、人々は残酷になっていったのである。処刑は人々の残忍な心を刺激したのだ。哀れな人々の不幸を見て笑うというのは、ジル・ド・レが悶絶する子供をみてげらげらと笑ったのと同じ感覚からくるものなのであろう。現代人には理解しがたい残忍さである。
死を見ることに対する彼の悦びと中世の人々の熱狂の類似から考えて、彼の感覚は中世の人々独特のものであるといえるだろう。彼の異常性も中世という時代にこそ芽生えたものだったのである。彼は死をみる快楽を個人的に続けたことによって領土の人々から告発されたが、その人々もジル・ド・レの処刑を見て興奮するのである。彼と人々の感覚の見事なシンクロを考えると、彼は正常であったのかもしれないとも思う。ただ極端な正常だったと。

3,結論
 今回二つのことについて論じた。一つは「ジル・ド・レの信仰心と犯罪の矛盾」についてであり、もう一つは「彼の残忍性」についてである。
中世の人々の、敬虔さと野蛮さの混淆とした精神状態がそのままジル・ド・レに当てはまることがわかり、人々の処刑に対する高揚と彼の殺人に対する高揚の類似性が理解できた。
 ジル・ド・レのような大犯罪者には、時代を超えた、周りの影響を受けない異常性があるのかと思ったところ、全く逆に、時代背景の作り出した大犯罪者と見た方がよいのかもしれないというところに驚いている。
彼の人柄には中世という時代の色濃い影響がみられ、彼の人生や特異性だけに焦点を当てることなく、中世という時代を踏まえた彼への理解ができたように思う。



参考文献
文庫本
澁澤龍彦『異端の肖像』、河出書房新社、1983年
  〃 『黒魔術の手帖』、河出書房新社、1983年
  〃 『夢の宇宙誌』、河出書房新社、1983年
新倉俊一『中世を旅する 奇蹟と愛と死と』、白水社、1999年

翻訳書
ミシェル・トゥルニエ『聖女ジャンヌと悪魔ジル』、榊原晃三訳、白水社、1987年、(Michel TOURNIER, GILLES ET JEANNE, Editions Gallimard,1983)
ジョルジュ・バタイユ『ジル・ド・レ論』、伊東守男訳、二見書房、1969年、(Georges Bataille,Le Procès de Gilles de Rais, Edition Jean-Jacques Pauvert,Paris,1965 )
ホイジンガ、『中世の秋Ⅰ』『中世の秋Ⅱ』、堀越孝一訳、中央公論新社、2001年、(Johan Huizinga,Herfsttij der Middeleeuwen, Stuttgart A. Kröner , 1952)
[1] ジョルジュ・バタイユ『ジル・ド・レ論』、伊東守男訳、二見書房、1969年、123頁(Georges Bataille,Le Procès de Gilles de Rais, Edition Jean-Jacques Pauvert,Paris,1965 )
[2] 同上、152頁
[3] ホイジンガ、『中世の秋Ⅱ』、堀越孝一訳、中央公論新社、2001年、10頁、(Johan Huizinga,
Herfsttij der Middeleeuwen, Stuttgart A. Kröner , 1952)
[4] ジョルジュ・バタイユ『ジル・ド・レ論』、伊東守男訳、二見書房、1969年、156,157頁(Georges Bataille,Le Procès de Gilles de Rais, Edition Jean-Jacques Pauvert,Paris,1965 )
[5] 澁澤龍彦、『黒魔術の手帖』、河出書房新社、1983年、257、258頁
[6] ジョルジュ・バタイユ、前掲載、39頁
[7] ホイジンガ、『中世の秋Ⅱ』、堀越孝一訳、中央公論新社、2001年、12頁、(Johan Huizinga,
Herfsttij der Middeleeuwen, Stuttgart A. Kröner , 1952)
[8] 同上、12頁
[9] ジョルジュ・バタイユ『ジル・ド・レ論』、伊東守男訳、二見書房、1969年、18頁(Georges Bataille,Le Procès de Gilles de Rais, Edition Jean-Jacques  Pauvert,Paris,1965 )
[10] ホイジンガ、『中世の秋Ⅰ』、堀越孝一訳、中央公論新社、2001年、38頁、(Johan Huizinga,Herfsttij der Middeleeuwen, Stuttgart A. Kröner , 1952)
[11] ジョルジュ・バタイユ『ジル・ド・レ論』、伊東守男訳、二見書房、1969年、152頁(Georges Bataille,Le Procès de Gilles de Rais, Edition Jean-Jacques Pauvert,Paris,1965 )

2008/07/15

夏休みの目標

Y先生の宿題で読破したフランスに関する本の列挙と書評が出たので、今年の夏はいーっぱい本を読もうと思います。

とりあえず目標は20冊。無理かな・・。

モーパッサンの短編集2冊と
コクトー『山師トマ』と
バタイユ『マダム・エドワルダ』と
『澁澤龍彦』と
小栗虫太郎『黒死館殺人事件』と
(こないだ見つけたの!!しかも東京駅で!!河出書房万歳☆解説は澁澤さんです)
サドの『恋の罪』(サドを読むの久しぶり)
その他澁澤龍彦の本4冊と
・・・は読むこと決定済み。というか買ってあるから確実に読む。
バイト先までの2時間の通勤時間(往復4時間)暇なので読書時間にします。
なんか色々読みたいものがあるので、いっぱい本屋に行こうと思います。
アンドレ・ブルトンとかも読みたいしー。
シュルレアリスム論とかも色々読みたいし
ギリシャ神話読みたいし、
O嬢についての論文とかも読みたいし。

あとは
渡瀬悠の『思春期未満お断り』のフラ語版マンガの読破と、
O嬢のフラ語版マンガの読破。
フランス文学史の読破。
澁澤さんの『悪魔のいる文学史』読破(難しくて読めない)
が理想。

そしてバイトだけの日はなるべく3時間はフラ語勉強したいです。
ちゃんとしゃべれるようになっておFranceでおいしいワインを飲みたいです。
がんばります。

2008/07/02

ハンス ベルメール Hans Bellmer について





















 ベルメールの球体人形の美しさは、ゆがんだ姿勢に折り曲げられたときの腰のラインにあると思う。
 仰け反るような姿勢の写真をみて、そうおもった。私にはもちろんロリータ趣味はないので、少女らしい貧乳とか、幼い顔立ちには全く惹かれないけれども、無表情に苦しそうな体制を耐えている人形は、非常にエロティックに見える。
 髪がないとか、服がないとか、涙や赤みがなくとも、肌の色と丸みがあれば十分なのかもしれない。

2008/06/24

フランス史課題 中世の歴史、芸術についてのレポート

 もうすぐ大学では期末の時期です。私が受講している「フランス史」では中世フランスの歴史と芸術について、自分でテーマを決めて書きなさい・・・という出題がされました。中世・・・というとアーサー王とかを思いつくのですが、イギリスだし…。
 そういえば最近読んだ澁澤さんの本の中にジル・ド・レエ候が出てきました。彼は中世の暗く重い宗教時代にあんなどんちゃん騒ぎのような殺人をしたひとだけれど、ジャンヌ・ダルクを助けてフランスの勝利を助けた人物でもありました。せっかくならジョルジュ・バタイユの『ジル・ド・レ論』も読みたかったし、ということでテーマはとりあえずジル・ド・レエがらみにすることに決定しました。
 一応図書館で5冊ほど、ジャンヌ・ダルクと彼に関する本を借りてきたので、明日からはメモをとりつつ読んでいこうと思います。
 先生が言うには「自分の感想でなく、読んだ参考文献をエディットしてほしい。」ということですので、まぁ突飛な発想はあまり期待されていないと肩の力を抜いてやってこうと思います。読んだものに疑問をぶつけつつ吸収していく、ようにして頑張ります。


 ちなみに本に対する投稿のときは「~である」口調を心がけるようにします。レポートのときのためになれるようにです。すべて「~である」「~だろう」では文がしょぼいだろうし、もっと試行錯誤してうまくひとに訴えられる文章を書きたいなって思うからです。練習あるのみ。

『ピエールとジャン(Pierre et Jean)』 モーパッサン(Guy de Maupassant) 

 中野の古本屋で購入したもの。モーパッサンは好きなので、よく文庫コーナーを見るのだけれど、今まで見たことがなかったものなので、たぶん今は書店では置いてないだろう。読めてよかったと思う。やはりモーパッサンの感情表現はまるで自分の身に起こっているようにリアルで生々しく生きている感じがするし、血がふつふつと煮える様な思いがする。いつもハラハラしながら読んでしまう。今回はうっかり電車の中で涙が出てしまうほどだった。
 少ない読書経験からバルザックと比較すると、バルザックはまるで客観的、死人が見たような乾いた眼で物語をたんたんと進めるのに対し、モーパッサンは主観重視の書き方で読者を小説の中にもぐりこませ、あたかも自分がすべての登場人物の体の中に入って経験をともにするような気分になる気がする。
 ピエールとジャンの性格と年齢差は丁度私と弟にぴったり当てはまり、熱しやすいピエールに反感を覚えるどころか彼に同情し、ジャンを妬ましく思った。ジャンよりもひどくイライラしたのは母親である。なぜ彼女は浅はかにも隠しとおせると思ったのか。まずそもそもジャンに遺産が回ってきたとき、ピエールにも分けてやれば世間にも疑われず、ピエールとジャン両方の息子の愛を受け続けられたのではないか。不倫愛でできた子供の幸せを思ってそうしたのではなく、自分の愛を貫き通せたという自己満足に酔っていただけのロマンチックな中年女性としか思えない。女は自由がないから、もっとしたたかに生きるべきだ。そして私がピエールだったらば、怒りにまかせて父親に真実をすべて話してしまうだろうと思う。結局彼は自己犠牲的な道を選び、奇妙な、血のつながりのない家族を残して離れてしまう。それは敗北であると思う。ジャンと母親の絆が深まるだけの結果なんて、ピエールはなんて無駄に時間と精神力を使ったのだろう。そして母親はなぜピエールもジャンも同じ自分の腹を痛めた息子なのに、ジャンを溺愛するのだろう。愛した相手の子のほうが可愛がれるのだろうか。女は恐ろしい。
 「名作ナリ。Une Vieノ比ニアラズ」と夏目漱石が評した文学。『女の一生』は少し長ったらしいかったかもしれないし、ピエールの短期間の激しい感情のほうがエキサイティングかもしれない。でも男がどんなものなのかがわかるのが『女の一生』で、女の酷さがわかるのがこの作品だと思う。
 モーパッサンが好き。

『黒魔術の手帖』 澁澤龍彦

 昔、よく小学生の時に黒魔術とかの本を意味もわからずに読めたなぁと今更ながら自分に感心する。サバト、黒ミサ、タロット、懐かしい・・・という感じ。
 澁澤さんの本はいつもとてもきれいな文章なんだけれど、この本は難しい。いや、必要なものを理解するには必要な知識を書いているのだろうけど、読解困難。中世なんかの観念を言葉で表すというのは大変なことなのだろう。むしろ私が小学生のときのように、なんとなく抽象的に覚えて理解するのが一番なのかもしれない。タロットの意味なんかは特に言葉にするとあまり意味が定まらず、いちいち覚えていくよりかはカードとカードの隣合いなんかで影響しあうところを読み取るほうがしっくりくるし、絵柄をじぃっと眺めて見出すイメージのほうが、本を調べて出てくる意味よりもメッセージ性のあるものになるだろう。
 いつも澁澤さんのエッセイ集には澁澤さんなりの解説とか、澁澤さんの感想とか、独特のビジョンが組み込まれていて、ついつい影響されてしまう。そしてそのコメントが毎回とてもやわらかな感じで、一生懸命難解な講義を終えたあとの、ご褒美的な雑談を聞いているようで、面白い。
 しかし内容の詳しさは、もしかしたらだいぶ前の本なので、ほかにオカルト書的に出された専門書のほうがはるかに細かく書かれているかもしれない。とくに黒ミサやサバトなんかはもっと詳細なものを読んだ記憶がある。オカルト好きな人は新しい知識、というよりは、澁澤さんの見解を垣間見る、という気持ちで読むべきだろう。

『異端の肖像』 澁澤龍彦

 これが書かれた当時には、この中のルドヴィヒ2世も、ジル・ド・レエ候もサン・ジュストもあまり知られていなかったのだろうということが、あとがきを読んでいてわかった。しかし、オカルトブーム後の現代においては、ジル・ド・レエ候も有名になり(なぜなら小学生のころから私は彼を知っていたから)、狂王ルドヴィヒ2世も映画化され(ぜひ見たいので近日中に借りてこようとおもう。予告編だけは見たことがある。主演男優が肖像にそっくりだと思った記憶がある。)、未知の異端はもうこの世の中に残っていないのかもしれないということが残念でならない。澁澤さんがこれを書いたときは多くの洋書を熱中して読みあさって、温めた卵を孵すように、日本の読者に紹介したのだろうとおもうと、そういった未知の世界の発掘はいかに楽しかっただろうとうらやましい気がする。そもそも洋書を読みあされる言語力もないのに大それた話ではあるけれど。
 私がこの中で一番興味をひかれた人物はデカダン少年皇帝、ヘリオガバルスだった。マゾヒスティックで中性的で、宗教的で肉欲的で、人間の自然な狂気の姿という感じが、後世にはこういった人物は俗物化して、ただのマゾ、おかま、狂信、色狂い、になるけれども、この時代においては何か神々しいものを感じさせるのだなと思った。こういうなにか狂気に憑かれた社会のなかでドロドロ生きるのも、案外人間らしくていいのかもしれないなぁ。またマゾヒスト研究の際に読み返したい。

2008/06/10

やっぱり読めない。

 今日は愛する町神田で千草忠夫版『O嬢の物語』を手に入れました!ひゃっほぅ。
 白昼堂々年輩のおじさんしかいないエロ本の古本屋に堂々と乗り込むアタクシ。コレクションのためにはどんな努力も惜しまない。おじさんたちをぎょっとさせても私はあくまでクールに目的のもの探しです。完璧主義です。これであと2冊。そのうち一冊は5000円・・・まだまだ買えるのは先かも。
 
 で、これは出てる翻訳の中で(アップルノベルですし)一番エロ小説じみた感じになってるそうなのですが。。。とわくわくしながら「ロワッシーの恋人たち」を2ページほど読みました。
 ・・・怖い(ノ_・。)
 ルネが怖い・・・。命令口調怖い。あぁぁ・・・ゾクゾクするのも否定できないけど、何でだろう。怖いです。読めない!!
 「君には知る必要はないよ。」とか、急に恋人に言われたらどうなるんだろう。でもOが感じてる不安とか、ちょーわかる気がして・・・はぁ。読めません。だってルネひどいんだもん(T_T)こんな恋人やだー。

2008/06/09

『私の奴隷になりなさい』『ご主人様と呼ばせてください』 サタミシュウ

 書店に、首輪着けた女の子の写真が表紙の本があったら、私みたいなドMでなくてもドキッとすることだろうと思います。ぺらりとめくった印象は「低俗感あふれる・・・携帯小説みたい。」でしたが、興味本位で購入。読まなければつまらないということもできないのですものね。
 さて、厚さと関係なく、内容の軽さゆえに2時間もあれば読み終わります。そして約30分くらいでどんな話か察しがつきます。あぁあぁ・・・まぁSM系出会いサイトで行われてることをまぁたいそうすごいことのように書いて・・・。この作家さん、結局何が描きたかったんでしょう。人間の性欲に対する感情を書きたかったならもちろん表現不足だし、客観的すぎるというか、肉体的な性欲の部分ばかり描きすぎていて、本自体の存在が一般文庫とエロ小説の間にあるくせに、セックスの描写も生ぬるいし(せめてもっと激しくプレイするならこれくらいの客観的表現のほうが興奮するかもしれないが、やってることの内容も大してハードでないのに、ぬめるような表現も少ないんじゃ燃えません。)小説として話はまったく退屈なストレートだし、さらに心情表現は稚拙そのもののように思えます。
 そもそも場面の切り替えや、構造は凝ってるのですが、なんだか人物設定そのものがあやふやというか、人間味を帯びるまでにきちんと表現されていないのに、セリフや行動ばかりでどんどん話が先に進んでいってしまうので、読んでいる側が内容に没頭できず、なんだか変にきもちわるい。これだったらネット探してくるSM小説のほうが全然面白いと思います。(ちなみに私は中学生のとき凡田英二さんのネットsm小説にはまっていました。)
 もしもこれが売れていて、これに魅力を感じる人が多いとしたら、嘆かわしい・・・と思いました。ケータイ小説のひどくつまらない日常感あふれるセリフに感動する人がいることも私はなんとなく日本の文化レベルの下落を感じます。かといって自分がじゃぁきちんとした文学レベルを持っているのか言えばけしてそうではありませんが。

2008/06/08

O嬢MANIA

 昨日は中野に行ってきました。まんだらけマニア館(?)は毎回私を苦悶させるところです。
 昨日は日本語のO嬢のマンガ、初版本と皮のカバーの分厚いO嬢のマンガに遭遇。特に心引かれたのは、後者。いつもいる髪の毛が長めのおにぃさんに中身を確認させて貰いました。
 あぁぁ・・・・。
 マンガはフランス語。右側のみにマンガは印刷され、左側には小説(解説??)がついております。絶対にレアもの。しかし、値段は¥8400・・・。貧乏学生には少々堪える値段でございます。
 以前ここで見つけた絶版『マゾヒストたち』(澁澤龍彦訳)は¥4500超で、その場は諦め、後日覗いたらもうなくなっていました。あの後悔の記憶が蘇りました。なかなか入荷しないものは買わなくては・・・。
 ところで、私はすでに『O嬢の物語』は
☆日本語文庫:
 澁澤龍彦訳(3冊目 2冊は布教活動しました) 
 鈴木(?)豊訳(神田で元々¥200くらいのが¥1200であった。即買い。)
☆フランス語文庫:
 『O嬢の物語』のみのもの(18ユーロ)
 『ロワッシーへの帰還』付きのもの(10ユーロくらい)
☆コミック:
 日本語版(こないだ新しく出た 全2巻 一冊¥2500)
 フランス語版(『ジュスティーヌ』入り 最近出た再録本 ¥3800くらい)
 ・・・と、7冊も持っているんですよね。結構マニアの域のつもりです。
 ちなみに訳で言うと澁澤龍彦のは時代的に削除しなきゃいけなかった表現があったそうで、完訳ではないそうです。そして鈴木豊訳は完全な訳だそうなので、絶版なのに1200円でとても安く買えて幸いでした。フランス旅行に行った際に買ったフランス語版は、日本で翻訳されてない、続きの部分『ロワッシーへの帰還』がついたものがどうしても欲しくて血眼で探しました。『ロワッシーへの帰還』単体では発売されていないため、本屋で検索してもらっても出ないし、色んなO嬢を中身確認しまくってやっと手にいれました。
 コミックはもちろんグィド・クレパクスのものですが、赤坂の本屋で偶然発見。買うつもりで探していたわけではなかったのですが、運命の出会いを感じて購入。フランス旅行中にフランス語版かイタリア語か英語版も手に入れようとしていたのですがどうしても見つからず(結局イタリアで『エマニュエル夫人』と『毛皮を着たヴィーナス』の入った英語版再録本だけゲット)たまたまフラッと入った中野まんだらけで見つけ、大興奮し運命の女神に感謝しつつ購入。
 
 昨日見つけたのが、もしもただ装飾が素晴らしいだけの中身同じものだったら買わなかったでしょうが・・・・。左側の文章が気になりました。小説総てをマンガと同時進行で同ページ数で納めることはできないだろうし、きっと今私が持ってないものが書かれている・・・そこが私を苦悶させました。
 いったん諦め、しかしカードで分割できたら買ってしまおうと腹を据え、再度入店(昨日4度目)。分割できるか・・・・できました。6回払い。ありがとう、神様。そして幸せの重荷を握りしめ、中野を後にしました。

 これだけたくさん持っていると、何回も読み返したのだろうと思われそうですが、たしかに日本語版コミックは何度も何度も読み返しましたが、実は小説は最初から最後まで読み返したことは1度しかありません。毎度毎度ページをめくる度に、O嬢の心情描写に心が揺さぶられすぎて、怖くて読めなくなってしまうんです。・゜゜・(≧д≦)・゜゜・。マンガはなんかOは無表情だし、美しいセックスコミックとして読めるのに、小説はどうしてもダメ。最初に読んだときが衝撃すぎて、あれから全然読んでなくても、まだトラウマです。でもそろそろもう一度読まなくちゃ。フランス語でも読みたいし。

 とにかく『O嬢の物語』は私の一生を変えました。私がどう感じ、どうされたいか、その怖さはなにか、全部が詰まっています。私も鉄の指輪で拘束されたい。と、思ってしまう。だから怖いです。とりつかれたような気がする。
 
 昨日フランス語版マンガをパラパラめくりました。普通の恋人だと思っていたのに、ルネにあんなことをされて、それでもOが「Je t'aime.」(「愛してるわ」)と、彼を受け入れるように言うと、ルネがそれを訂正させ、「Je vous aime.」と言うように直させます(「繰り返せ、あなた様を愛しております、だ」みたいな。)あぁ!!!これだけでもう私おかしくなりそうです。いままでTUで話しかけていた恋人にVOUSで呼ぶように命令されるだなんて!フランス語でないと伝わってこないニュアンスをこの二つの台詞だけで少し理解できて、それがとても新鮮で完璧な主従で、あぁ・・・素敵です(TωT )

 きっと卒論はこれにします。そのためには千草忠夫訳のもよまなくては・・・。まだまだマニアになろうと思います。今度は神田にまた探しに行きます。

2008/06/05

『東西不思議物語』 澁澤龍彦

 東京駅の本屋で、少し広めのスペースをとって澁澤さんの本がリコメンドされてました。
 なんだか面白そうなので買いました。
 どれもこれも微妙なオカルティズムで、黒ミサにしても黒ミサで使われるパンについて焦点を絞って書いてみたり、東西不思議・・・というタイトルどおり、日本にある民話は実は中国にも、ヨーロッパにもあるんだよ・・・みたいな小話的なものを集めたものです。
 澁澤龍彦の書く文章はとても軽くて読みやすい。回顧展に行っても思ったことだけれど、文学を楽しむ姿勢が文章に表れていて、こっちも世界に飲み込まれるような感覚で一冊すぐに読み終われるから不思議です。内容は興味あって、いろいろ発見もあるし、面白いはずなのになかなか進まない本とかが多いのですが、澁澤さんの本はいつもたいてい興味がとてもあるわけではなくてもすぐに没頭してしまいます。「ところがどっこい。。」なんて軽い口調で進む話に思わず車内でにやける私。
 さて、この本で私がとてもほくほくした気分になれたのは、「トラツグミ別名ヌエのこと」という章にトラツグミの声をいつも北鎌倉の円覚寺の裏にある自宅で聞いていると書いてあって、実は私は円覚寺の中で育ったようなものなので、自分が遠い記憶のなかで遊びまわっていた山寺の道を、私が生まれる直前まで澁澤さんは歩いていたのかもしれない・・・と想像したからです。また「天狗と妖霊星のこと」の章にも幼いころ建長寺まで遊びに行って真っ黒なカラス天狗の鉄像に妙な気分を感じたと書いてあったのですが、私も同じくあの高い山にところどころ聳え立つ大きなカラス天狗の険しい表情や不気味さに、まったく同じ気持ちをよく感じていたことを思い出しました。普通の仏像とは違ってなんだか緑黒く、山登りの途中にあって、天気の悪い日なんかには子供心に超現実的な恐怖を覚えました。たかが同じ場所で育っただけではありますが、なんかうれしい、同じ感覚。特にカラス天狗のことは、読んだ瞬間に遠い記憶の底から、小さいころ見上げたカラス天狗のイメージがフゥーっと浮き上がってきて珍しい感覚でした。
 話の内容はどれも他愛ない、日本の昔話が主ですが、どの話もどこで知ったか知らないのに聞き覚えがあるような話ばかりで懐かしい気分で読みました。母が教えてくれたのか、水木しげるの本で読んだのか。思ってみれば水木しげるの妖怪の本が家にあり、内容が面白いのでいつも一人で読んでいた記憶があります。「牡丹灯篭」や柄杓をあげると水を入れてくる海坊主の話もよく読みました。
 しかしなんといってもいろんな文献を相当読んでいるんだな!!といつもびっくりさせられます。とにかく柳田国男の本は読もうと思いました。江戸川乱歩も。ブログのタイトルはエロス文学研究と銘打っていますが、エロスと同じくらいオカルトも好きなのです。タロットとか。
 「女護の島のこと」のなかに男女別に住む島のことが載っていましたが、案外効率のよい結婚制度ができるのではないかと思いました。女子は女子だけのほうがいつも仲良くいられるし、男は男のほうがいいのかもしれない。たまに会いにくる妻への愛情のほうが、常にそばにいるうるさい奥さんへの愛情より深く情熱的になるのでは・・・。
  

『澁澤龍彦回顧展 ここちよいサロン』 (神奈川近代文学館) についての感想

先日生誕80周年記念で、横浜にある神奈川近代文学館に行ってきました。
澁澤龍彦回顧展 ここちよいサロン

 雨の日の夕方、閉館間際に行ったので、人はあまりいないかと思っていたけれど結構たくさんきてました。やはり人気なのですね。 時間がないとおもいつつ・・・じっくり見ていくと見甲斐のあるものばかりでした。
 知人友人の多い渋澤さんの世界は本当に広くて、これも読まねば・・・これも読みたい・・・ と、自分の読んだものの少なさに悲しくなるほどでした。 一年弱前に見た鎌倉文学館の澁澤展と展示してあるものは似ていて まぁどこかで読んだような・・・という感じでしたが、衝撃の出会いだった一年前を思い出し熱い気持ちになりました。
 しかし「ここちよいサロン」、となんだか澁澤龍彦のイメージとかけ離れたほんわかした副題のとおり、 いかに渋澤さんは交友関係が広かったか、あの素敵なお宅にどんな方が来て和んだのか、という澁澤龍彦自身の歴史をメインにするのではなく、その周りの世界を紹介したものが多かったので、 私の読むべき世界も広がった感じがして、非常に有意義な見学でした。
 とくにやはりフランス文学科の人間としては、どういう経路でサドに至ったか、が面白く ジャン・コクトーからアンドレ・ブルトンの『黒いユーモア選集』からサドに興味を持ったというのを知って、逆に私はじゃぁサドからアンドレ・ブルトン、そしてコクトーと、逆ルートだなと思いました。
 澁澤さんの使っていた辞書の分厚さ、ぼろぼろさに驚きました。私もあんな風になるまで勉強しなければいけないなぁと。
 そして何度見ても『眠り姫(?)』カバーイラストのショッキングピンクとグリーンにセンスの良さを感じるのでした。

そとでは薔薇がきれいに咲いていて、外人墓地も薄暗く、オカルトでゴシックな気分で帰れました。

少し忙しく行った日からだいぶたっているので少し記憶があいまいですが、このへんで。
生誕80周年ということで、もっとたくさんの本が文庫化されてほしいと願うばかりです。
読みたいけれど神田で探さねばならない・・・と思うと・・・うーん。

2008/04/21

『愛』についてのあいまいな感想。

いい言葉はあった。純粋で、フェミニストで、女性が理想とする男性の愛がそこには描かれていた。
古い世界の恋愛哲学であっても、伝わってくるものはたしかにあった。
けれど、結婚を神聖化し、夫が妻のそばにいることが最高に幸せであると繰り返し説く著者の意見に
私は少し戸惑った。
だって、19世紀に書かれた、愛の聖書であるこの本に、
夫は妻のそばにいるべきで、外で遊ぶべきでないと強く何度も書いてあるくせに、
今の世の中、日本の夫たちは堂々と風俗にいくではないか。
この2世紀、男はなにも変わらず、妻の嫉妬の苦しみも変わらない。
なんと成長のない人間・・・。
絶望感がこみ上げるし、無理のある理想主義に逆に冷めてしまう。
最後まではまだ読んでいない。読む意味があるのか、わからない。
だって、著者の見出した理想の夫婦像はいまだ実現されていないという事実を私は知っているから。

2008/04/09

『愛』 ジュール・ミシュレ より

"女を苦しめるのは男の横暴さよりはむしろその冷淡さであり、服従することにくらべれば、十分に服従する機会をえられないことの方がはるかに苦悩なのである。"

簡潔に、まっすぐ刃を向けるように、私たち女の心を描いていると思います。
しかし、現代において男女平等化の進んだ社会においては、これは女全般を映した表現とは言えないかもしれません。今の女性もこうだ、といわれると違和感があります。この50年ほどのあいだに劇的に変化したものは女の意識ではないでしょうか。

とりあえず、Mの女性は、この言葉がぴたりと当てはまるでしょう。
横暴さにも冷淡さにも痺れてしまうM女はいますがw

2008/04/08

『愛(L'amor)』  ジュール・ミシュレ(Jules Michelet)

何の下調べもなく、突発的に買った本。

フランス人が書いた、愛の本かぁ…小説かな、という感じで手に取ったのですが、帯に「愛の聖書の古典的名著」と書いてあったので、これはこれは…と思って買いました。しかも私は最近出た恋愛ハウツー本とかそういうのを毛嫌いする人間だし、あぁいった本の美のない文章には惹かれないのですが、この本は古いし、『フランス革命史』という有名な本を書いた著者の作だということで、何か学ぶことがあるだろうと信じています。しかし二つの作品のテーマの違いが気になりますがw
SMを学ぶにしろなんにしろ、基本は人間なわけで、そしてSM関係も恋愛の範疇なので、まずSMの前にまだまったくよくわからない愛についてもう少し知識が必要だと思うわけですね。恋愛経験だって、まだ20歳そこらですので、深い大人の愛など、知らないわけですし、せめて文章で知識を得てみようという次第でございます。

ただしこの本、なんとなく男に向けた女性探究の本みたいな…まぁ、それでもいっか。
そういう風に考えると、SMを含んだ文学をよりよく理解するために必要なことは、ただエロス文学を読みあさることではなくて、心理学にも目を向けなければいけないなぁと思っています。今は魅力的な小説が数多くあって心理学系まで手を伸ばす暇がないけれども、ある程度満足するまで読み終わったら次は心理学、と決めております。

これも感想は読んだ後。

『女の一生(Une Vie)』 モーパッサン(Guy de Maupassant) 

 最近自分をコントロール出来てないので、自分を理解せねば、というか女っていう生物について理解せねば…と思って買いました。不幸な女の話に、女に生まれたことに悲しくなってしまうかもしれませんが・・・。
 学部に受かったときに読んだ「脂肪の塊」は衝撃的におもしろくて、フランス文学ってストーリー自体はものすごく単純だけど、心理描写がめちゃくちゃうまいなぁと、新鮮な想いをしました。
過去に感じたことがあるような感情をうまく描き切っていて、そういうのって人間観察がものすごくうまくないとできないことだと思うから、モーパッサンってすごいなぁ。文学ってこういうのかぁと、それまでろくに本も読んだことがなかった私はカルチャーショックを感じたのです。
。。。というかそんな私がフランス文学科に入ったことが自分では今でも不思議ですが。
 これも期待して読みます。モーパッサンって後年精神を病んだそうで、人間を知りすぎると気を病むのでしょうか…。怖い。

『黒いユーモア選集 1』 アンドレ・ブルトン

元々この本のタイトルからして好みな感じがしていたけれども
値段が高かったこともあって躊躇していたのが、
最近読んでいる(メモを取りながらでゆっくり読んでいる)『悪魔のいる文学史』に
アンドレ・ブルトンが発掘した1830年代の小ロマン主義者についての細かな説明があり、
厭世主義や自殺偏愛の作家の憂鬱な芸術性についての魅力に興味をもち、
ペトリュス・ボレルなどのそういった作家の作品がこれに収録されているとも知って、
吹っ切れて、本日1だけ購入。

1830年代のフランスの小ロマン主義とシュルレアリストの関係も結構面白いなぁと思う。
それにはフランスの政治情勢や民衆の思想もかかわってきて、なかなか難しいテーマだけど、
読んでいこうとおもう。
エロくはないでしょう。
でもサドを発掘したアンドレ・ブルトンのことですから、私の好みに合う作品を集めてると信じてます。

感想は読んだ後に。


『死者の奢り・飼育』 大江健三郎

私の趣向のすべてを知る友人から貸していただいたBL漫画に載っていたので興味を持った、
日本の被虐精神を描いた文学、らしい。
大江健三郎はエロス、だと渋澤龍彦は(たしか)書いていたので、期待を持って読みます。
久しぶりの日本文学。
ノーベル文学賞受賞作家なのですね。知りませんでした。
全然知識不足なので、もっとオールジャンルいろいろ読まなければと思います。

感想などは後日読み終わったときに。

2008/04/06

4月5日 「悪魔のいる文学史」渋澤龍彦 

・ペトリュス・ボレル 
 「狂想曲(ラプソディ)」
 『ピュティファル夫人』
 伝記ジュール・クラレティ
 批評ジュール・ジャナン 
 賛辞アンドレ・ブルトン
 1830年代にサド賞賛
 彼なくしては、ロマン主義に一つの欠陥が生じる(ボードレール)
 自殺偏愛 厭世主義 
 ヴァルモール、モローの死生観とボレル、ラッブのそれ
・ゴーティエ 
 「ロマン主義の歴史」『アルベルテュス』
・アルベール・ティボーデ 
 フランス文学史
・マリオ・プラーツ教授 
 「ロマン主義的苦悶」
・狂詩人(ブラックユーモア)ラッブ、ボレル、フォルヌレ、ランボー、ロートレアモンと感傷詩人ヴァルモール、モロー、デシャン兄弟、ギュタンゲールの死の考えの差

・ピエール・フランソワ・ラスネール
 フローベール賞賛
 ブルトン『黒いユーモア選集』
 『回想録』
 『有罪判決後のラスネール』
・カミュ『反抗的人間』
 ロマン主義の遺産は、フランスの貴族ユゴーによってではなく、犯罪の詩人であるボードレールとラスネールによって管理された 
・コリン・ウィルソン『殺人百科』『殺人の哲学』

2008/04/03

はじめまして。

フランス文学科2年生です。
このブログは主にフランス エロチシズム文学を研究し、
見たもの、読んだものの感想やデータを残して置くためのブログです。

思えば去年の春、某都心大学のフランス文学科に、私は特に目標もなく入ったわけですが
入学後すぐに、今思えば偶然というよりも運命と思えて仕方ない、澁澤龍彦との出会いがありました。
ちょうど澁澤氏の没後20年の企画で鎌倉で展覧会が行われており、
そこにまったく偶然、サークルの遠足で足を運んだのがきっかけで氏を知ることになりました。
時間つぶしの入館だったのですが、なにやらサドだのエロだのの言葉がずらずらと並ぶ館内に
妖しいゴシックな空気が流れていました。
サドというのが作家で、本をだし、フランス人だということも、そのとき知ったのですが、
私はマゾヒストとして生きている人間ですので、あぁいった雰囲気は大好きでした。
血が上ってくるような感覚、何か運命を感じたようでした。
私は一気に魅了され、それからフランス エロチシズム文学を研究すると決めたのです。