2008/08/06

ジル・ド・レの信仰と犯罪、異常性

ジル・ド・レは、聖女ジャンヌ・ダルクと共にシャルル7世のために戦い、フランス王国元帥にまでなりながら、後年幼児を集め大量に殺戮し、悪魔信仰や錬金術を行い、最後は逮捕されジャンヌと同じように火あぶりにされた数奇な運命を生きた人である。
聖女という存在のそばで栄光を手にしながらあとになって反キリスト教的な快感にのめりこんだというドラマチックな人生に様々な人が惹かれ、研究されている。しかし『聖女ジャンヌと悪魔ジル』でミシェル・トゥルニエが描いたような二人の間の絆、ジャンヌの影響でのジルの発狂という事実は実際にはなかったらしい。ジョルジュ・バタイユの『ジル・ド・レ論』にも「明らかにジル・ド・レにとっては、ジャンヌ・ダルクは理解不能の人物であった。[1]」とあり、カルル・ユイスマンスやミシェル・バタイユなどの研究もこの意見と一致している。私は資料を集める際、『聖女ジャンヌと悪魔ジル』から先に読んだのだが、ジルの、男装し戦う少女ジャンヌの少年的容姿が忘れられず男色の道にのめり込む様や、魔女から聖女に帰化するジャンヌに憧れ、悪魔信仰に溺れながらも純粋に天国を目指す様は、彼の一生をジャンヌという存在を使って悲劇に仕立ててあり、論文を書く際の資料としてはフィクション性が高いため危険なものであったが、ロマンチックで同情を引くような内容であった。ミシェル・トゥルニエの文章は生き生きとしていて、司馬遼太郎のようなものなのだろう。しかし事実は、レ元帥はジャンヌなど全く関係なく大量幼児殺人を行い、サディスティックな快感を得ていたのだ。
 ところで、私が注目したところは、まず彼は生粋の貴族の出であり、元帥としての地位も名誉も財産もあったので、しばしば自分の領地に豪華な教会を建てたのだが、その裏で(しかも同時期に)男色と殺人という罪を犯しているというところである。彼はなぜキリスト教に奉仕しながら一方教理にそむく行為をしたのだろうか。逆にいえばなぜキリスト教を捨てきれなかったのだろうか。最後の裁判時にはなんと彼は破門という裁きに驚き絶望するである。そして懺悔を申し出るのだ。なぜ彼は最後までキリストに縋ったのだろうか。
そして次に彼が犯した罪についてである。彼の犯した罪は恐ろしいことだろうが現代と中世では価値観に大幅な違いがあり、人間の野蛮さも今とは比べものにならないだろう。魔女裁判が行われたことを考えてみれば、人の死は時として見世物になる時代であったのだ[2]。彼の残忍性と当代の人々のそれを比較する。
 私は今回ジル・ド・レの信仰心と異常行為の矛盾はなぜ起こったのかを考え、そしてその異常行為を中世の人々の野蛮さを踏まえて観察することで、ジル・ド・レの人物像とともに当時の人々の心理を覗いてみたい。

第一章 ジル・ド・レの反キリスト教行為と信仰心
 まずここでは、ジル・ド・レの犯した罪と信仰心の矛盾について考えてみる。彼は自分の快感のために、マシュクール城で小児殺害の悪行にふけるかたわら、「罪なき子ら」崇敬のミサを教会に寄進していた[3]のである。私は彼のこの信仰心と残虐性の二面性に強い疑問を感じた。彼は禁忌を犯しながらも、神の救いを求めたのであろうか。
そして彼はキリスト教から禁止されていた錬金術に熱中し(極度の出費によって金欠になったためだといわれている)、悪魔信仰にのめりこんだのであるが、裁判によって破門されたときも、それを当然だとは思わなかったようである。
 
  この時代にあっては破門には人々を完全に絶望せしめてしまう力があった。表面的にはジルは裁判官たちを超越するものであるような顔をすることもできた。しかしながら彼はその数々の犯罪、悪魔道の修行にもかかわらず迷信深い信者であったのであり、そんな彼はこの破門の脅威の前にもろくも崩れ去ったのである[4]

バタイユが書いているように、破門には人々から希望を奪う力があった。中世の存在価値は、キリスト教徒して生きることであったようである。それを否定されるということはジル・ド・レにとっても同様に脅威の判決だったのである。しかし、彼が(諸説あるが)推定100以上の[5]子供を殺し、数々の悪行を行ったあとも、信仰心を捨てなかったということに驚くべきではないだろうか。魂までは悪魔に渡さなかったというわけである。彼はしかも法廷で悪魔信仰の仲間であったフランソワ・プレラッティに対してこう言っているのである。

  「さらばじゃ、フランソワ、わが友よ最早この世で会うことはない。わたしは神に祈ろう、そなたに忍耐心と正しき知識と、そして天国の歓喜の内に目の当たりにすることになるであろう神への希望を与え給うようにな。わたしのために神に祈ってくれ。私もそなたのために祈ろうによって」[6]

この言葉は、自分がまだ天国に行けることを信じているということであろう。楽天主義とも言えそうな、ジル・ド・レの信仰心に私は驚くばかりである。悪魔を信仰し、少年のいけにえを悪魔にささげ、快感にひたりながら、一方では教会に寄進し、ミサに赴き、破門におびえ、神に懺悔した彼の二面性こそが行為以上に異常だと感じてしまう。中世の人々の感覚は、このように二面性をもったものであるといえるのだろうか。
ホイジンガは中世の人々の信仰心について、こう書いている。

  中世人の意識にあっては、いわば、ふたつの人生観が、よりそいあって存在していたのである。敬虔にして禁欲的な人生観は、すべての道徳感情を、おのれの側にひきつけた。それに反発するかのように、世俗的人生観は、ますます奔放に、悪魔にすっかり身をゆだねることになった。この二つの人生観のどちらかが、他を完全におさえて支配的となるとき、聖者が、あるいは度しがたい罪人がみられることになろう。だが、一般に、両者は、針の大きな振幅を示しつつ、からくも均衡を保っていたのであって、だから、血みどろの罪にまっかにそまっていればこそ、それだけいっそう激烈に、あふれんばかりの敬虔の想いを、ときとすると爆発させることもあるという、激情の人間像がみられたのであった[7]
 
人々の心のなかは発作的な粗暴さと、発作的な信仰深さによって入り混じっていたようである。中世後期には清貧を説く修道会がゴシック芸術にこだわっていったということも、この矛盾を抱く時代を表しているようである。また貴族も気まぐれにミサに参加する一方、血みどろの楽しみに浸っていたようである。その両極端の美徳悪徳の魅力の狭間で、どちらかになりきれない矛盾は、ジル・ド・レだけのものではなく、中世の人々全般にわたる症状であったらしい。現代人である私たちには到底理解できない精神状態であるが、この中世人の思想は罪の現世に対する神の国という二元論でなりたっていたのだ[8]。とすれば彼の犯罪の闇をまるで敬虔さの光が強調しているような彼の人生は、その個人の異常性によってではなく、時代的なものであったのである。
そしてバタイユは、キリスト教徒におけるこういった混乱を教理に反することではないと書いている。

あるいはつきつめればキリスト教とは犯罪を要請するものなのかもしれない、とさえ言えるのだ。そう、キリスト教は恐るべき罪業の要請であり、ある意味ではそれを必要としているのだ。なぜなら、それは罪であって始めてその罪を赦すものたり得るからであるからだ。(中略)キリスト教は、人類を、このような狂気の極限を内包する人類を暗示するものであり、キリスト教のみが、人類がそのようなものの存在に堪えて行くことを可能としているのである。[9]

罪ある自分を救ってほしいと懇願するマゾヒスティックな面と、魅力ある罪に飲み込まれるサディスティックな喜びが混じった自虐的な考えがキリスト教によって認められているようである。この言葉で、ジル・ド・レの犯罪行為と、対照的なキリスト教信仰の矛盾がなぜ起こったのか、わかるのではないだろうか。キリスト教世界が彼の犯罪の起因といえるのかもしれないのである。
結論としていえば、ジル・ド・レの善悪対照的な奇行は、彼が中世キリスト教世界に生まれたからこそ行われたのであろう。彼のような時代を超えた伝説的大犯罪者の中にも色濃く時代の影響が見られるのである。


第二章 中世の人々の野蛮さとジル・ド・レの異常さ
 ジル・ド・レのサディズムな行為は、まるでサドの著作を読んでいるかの様にすさまじい。部下に命じて犠牲者の幼児に猿轡をかませ、壁に吊り下げさせ、部下に悪役を負わせて、自分が子どものそばに行き、助けてやるそぶりを見せる。その時の子供の安著の顔とこれからの子供の運命を考え彼は悦びに浸るのである。その後子供の首を切り、溢れ出す血と痙攣を眺めては楽しみ、まだ柔らかな死体を玩具にしてエクスタシーに飲み込まれるのである。その後死体を解体させ、時には何体もの子供の死体の首を並べ、どの子が一番魅力的かを共犯者に答えさせ、喜んでその首に接吻したそうである。
ジル・ド・レの残忍さが度を超えたものであることは明らかなことであるが、中世は魔女裁判を行うような時代であったことに注目したい。残酷さは人々にとってただ恐怖だったのだろうか。拷問や処刑は人々に興奮を与えはしなかったか。もし人々が恐怖以上に楽しみを見出していたなら、人々もどこかでジル・ド・レが感じた、死にゆくさまを見るという快感を得ていたのではないだろうか。
ここでは、中世における人々の死に対する残忍さを考えた上でジル・ド・レの野蛮さを考えたい。
まずホイジンガの述べた後期中世の人々の残忍さの例は以下のようなものである。
 
 後期中世の残酷さがわたしたちをおどろかすのは、その病的倒錯によってではない。その残忍さのうちに民衆のいだく、けだものじみた、いささか遅鈍な喜び、その残忍さを包む陽気なお祭り騒ぎによってである。モンスの町の人びとは、ある盗賊の首領を、あまりにも高すぎる値段だというのに、あえて買いとったが、それというのも、その男を八裂きにして楽しもうとしてのことであった。「民衆は、死んだ聖者の屍がたとえよみがえったとしてもこうは喜ばないだろうと思われるほど、喜び楽しんだ。」と、これはモリネの証言である。[10]

他にも民衆は公開された拷問を見ることを長く楽しもうと処刑してしまうことを許さなかったということも書かれている。バタイユはこの処刑をこう書いている。

当時にあっては処刑人の死は舞台の上の悲劇と同様に人の精神を高揚させる、意義深き人生の一モメントであったのだ。戦い、虐殺、諸侯の行列や宗教的行列、そして処刑は、教会や城塞同様、大衆を支配していたのだ。[11]

つまり、民衆にとって処刑は楽しみであり、処刑というのは見世物であるということである。この民衆の心理は、ジル・ド・レの残虐行為のそれとまったく同じではないだろうか。ジル・ド・レも快楽殺人の際、犠牲者の断末魔がなるべく長引くようにしたという。彼も民衆も、同じように視覚による喜びを得ていたのであり、程度は違えども同様の興奮を味わっていたのである。
当時の人々は百年戦争という絶えず戦争が起こっていた時代、ペストの被害が酷かった時代にあって、死というものに親近感を抱いていた。また戦争によって人間の強欲さが扇動され、強奪、放火、殺戮に慣れ、人々は残酷になっていったのである。処刑は人々の残忍な心を刺激したのだ。哀れな人々の不幸を見て笑うというのは、ジル・ド・レが悶絶する子供をみてげらげらと笑ったのと同じ感覚からくるものなのであろう。現代人には理解しがたい残忍さである。
死を見ることに対する彼の悦びと中世の人々の熱狂の類似から考えて、彼の感覚は中世の人々独特のものであるといえるだろう。彼の異常性も中世という時代にこそ芽生えたものだったのである。彼は死をみる快楽を個人的に続けたことによって領土の人々から告発されたが、その人々もジル・ド・レの処刑を見て興奮するのである。彼と人々の感覚の見事なシンクロを考えると、彼は正常であったのかもしれないとも思う。ただ極端な正常だったと。

3,結論
 今回二つのことについて論じた。一つは「ジル・ド・レの信仰心と犯罪の矛盾」についてであり、もう一つは「彼の残忍性」についてである。
中世の人々の、敬虔さと野蛮さの混淆とした精神状態がそのままジル・ド・レに当てはまることがわかり、人々の処刑に対する高揚と彼の殺人に対する高揚の類似性が理解できた。
 ジル・ド・レのような大犯罪者には、時代を超えた、周りの影響を受けない異常性があるのかと思ったところ、全く逆に、時代背景の作り出した大犯罪者と見た方がよいのかもしれないというところに驚いている。
彼の人柄には中世という時代の色濃い影響がみられ、彼の人生や特異性だけに焦点を当てることなく、中世という時代を踏まえた彼への理解ができたように思う。



参考文献
文庫本
澁澤龍彦『異端の肖像』、河出書房新社、1983年
  〃 『黒魔術の手帖』、河出書房新社、1983年
  〃 『夢の宇宙誌』、河出書房新社、1983年
新倉俊一『中世を旅する 奇蹟と愛と死と』、白水社、1999年

翻訳書
ミシェル・トゥルニエ『聖女ジャンヌと悪魔ジル』、榊原晃三訳、白水社、1987年、(Michel TOURNIER, GILLES ET JEANNE, Editions Gallimard,1983)
ジョルジュ・バタイユ『ジル・ド・レ論』、伊東守男訳、二見書房、1969年、(Georges Bataille,Le Procès de Gilles de Rais, Edition Jean-Jacques Pauvert,Paris,1965 )
ホイジンガ、『中世の秋Ⅰ』『中世の秋Ⅱ』、堀越孝一訳、中央公論新社、2001年、(Johan Huizinga,Herfsttij der Middeleeuwen, Stuttgart A. Kröner , 1952)
[1] ジョルジュ・バタイユ『ジル・ド・レ論』、伊東守男訳、二見書房、1969年、123頁(Georges Bataille,Le Procès de Gilles de Rais, Edition Jean-Jacques Pauvert,Paris,1965 )
[2] 同上、152頁
[3] ホイジンガ、『中世の秋Ⅱ』、堀越孝一訳、中央公論新社、2001年、10頁、(Johan Huizinga,
Herfsttij der Middeleeuwen, Stuttgart A. Kröner , 1952)
[4] ジョルジュ・バタイユ『ジル・ド・レ論』、伊東守男訳、二見書房、1969年、156,157頁(Georges Bataille,Le Procès de Gilles de Rais, Edition Jean-Jacques Pauvert,Paris,1965 )
[5] 澁澤龍彦、『黒魔術の手帖』、河出書房新社、1983年、257、258頁
[6] ジョルジュ・バタイユ、前掲載、39頁
[7] ホイジンガ、『中世の秋Ⅱ』、堀越孝一訳、中央公論新社、2001年、12頁、(Johan Huizinga,
Herfsttij der Middeleeuwen, Stuttgart A. Kröner , 1952)
[8] 同上、12頁
[9] ジョルジュ・バタイユ『ジル・ド・レ論』、伊東守男訳、二見書房、1969年、18頁(Georges Bataille,Le Procès de Gilles de Rais, Edition Jean-Jacques  Pauvert,Paris,1965 )
[10] ホイジンガ、『中世の秋Ⅰ』、堀越孝一訳、中央公論新社、2001年、38頁、(Johan Huizinga,Herfsttij der Middeleeuwen, Stuttgart A. Kröner , 1952)
[11] ジョルジュ・バタイユ『ジル・ド・レ論』、伊東守男訳、二見書房、1969年、152頁(Georges Bataille,Le Procès de Gilles de Rais, Edition Jean-Jacques Pauvert,Paris,1965 )

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